◆平成ギャルより進んでいた明治の撫子たち◆

 明治の男女交際というと、いかにも固そうなイメージがあります。が、それはあくまで、後から作られたイメージです。実情は、まるで違いました。
 明治11年の朝野新聞には、

「15歳以上の処女は希」

 という、現代でも考えられないような記事が載っています(@_@)!
 当時の女性は、初潮を向かえるか否かで体験するのが普通だったのです。
 この流れは、明治34年の女学校開設によってさらに加速され、当時の女学生には在学中に出産する生徒が続出しました。



   ◆夜這い◆

 農村では、女性が初めて体験するのは、たいてい野外だったようです。
 14〜5歳になれば、祭りの時などを狙って、男性はまず踊っている少女の胸を愛撫しながら誘いをかけたそうです。今だったら逮捕モノです^^;。
 少女も、よほど嫌な相手でない限り、これを拒否しなかったといいます。
 合意すれば、親がいようが構わずに、物陰へ姿を消しました。

 相手をするのは、たいてい女性の扱いに慣れた既婚男性でした。当時の農村には、「処女のまま結婚するとうまくいかない」という信仰がありました。

 少女は、野外の行為に慣れてくると、次は寝室に男性が忍び込んでくるのを受け入れます。いわゆる夜這いです。当時は建物に隙間が多く、夜ともなれば真暗だったので可能でした。
 初潮を迎えると赤飯を炊く風習がありますが、これは「夜這いしてもいい」と近所に知らせるためでした。
 この相手もやはり、既婚男性が大半だったようです。妻が眠るのを待って、抜け出してくるのです。初心者は、この「先輩」の草履持ちをして、家への忍び込み方や口説き方を見習いました。
 当然、男性は、手土産に金品を持参しました。もっとも、事前に話がついていない限り、成功率は低かったようです。そこは現代のナンパと変わりません。
 もちろん、人気のある女性のところには、列ができることになります。そんな場合は先着順ではなく、ケンカが強い者と年上の者が優先でした。他の村から来た夜這い男とカチ合えば、その場で乱闘ということもありました。ジャンケンで片をつけることもあったようです(笑)
 女性の中でも、人気によって夜這い人が多い者と少ない者が出てきますが、女同士でいがみ合うことはなく、ただ自分のところに多く来てくれることを願うのがルールでした。女性のほうから夜這いを仕掛けることもあったようです。

 家族は夜這い男を警戒し、時には捕まえて殺してしまうこともありましたが、寛大な家も多かったそうです。長女でなければ、夜這いで早く結婚相手が決まってくれれば、口減らしになるという計算も働いていました。
 人妻に夜這いして夫に見つかれば、警察に訴えられることもありました。もっとも一般的には、「お互い様」ということで、面と向かってやり合うことはあまりなかったようです。たまには集団スワッピングも行なわれました。

 たいていの場合、夜這いは大目に見られていました。監視役の警官が夜這いに参加する場合さえあったそうです。
 しかし妊娠は一大事で、発覚すると厳しく罰せられるので、密かに堕胎するか、産めば母親の子どもとして育てました。私生児を産んだ女性が村に残っていれば、条件の悪い結婚を強いられることが多かったので、たいていは村を出ました。

 農村では、小学校を卒業してからも自分の家で寝泊まりするのは子どもっぽいことだとされ、夕食後は若者宿などと呼ばれる合宿所に寝泊まりする風習が、あちこちに見られました。ここで先輩から村のしきたりなどを学び、一人前になっていったのです。若者宿には女性用もあれば、男女共用のものもありました。
 結婚によって宿から卒業することになりますが、宿を共にした仲間たちとは、生涯実の家族同様の付き合いをしたといいます。
 若者宿は夜這いの温床にもなっていたので、政府は明治20年代から青年団を全国に普及させ、風紀の厳格化を主要な目的のひとつとしました。



   ◆臣民貞淑化政策◆

 欧米の目を気にしていた政府は、日本人のおおらかな国民性を快く思っていませんでした。邏卒なる役人を使って、風紀の取り締まりに躍起になっていました。
 たとえ夫婦であろうと、人前で微笑み合っただけでも「びん乱」であるとして厳しく注意しました。
 絶好のデートコースである映画館は、男性席と女性席に分けられました。

 参政権の無かった女性たちは、政府の歓心を得る為に、進んでこの方針に従いました。
 大正時代には、女性の貞操は「女の全部がそれでなければならない」などと神聖視されるようになります。大和撫子のイメージは、この当時に形成されたものです。
 自発的に重荷を背負った結果、不適当とされる状況で貞操を失った女性たちは、拭う術の無い挫折感と、世間の冷たい視線に苦しめられることになります。



   ◆「主婦」の誕生◆

 明治初期から、啓蒙思想の影響によって、男女同権、一夫一婦制の徹底、愛人の廃止などが唱えられるようになりました。
 しかし、離婚はさほど悪いことだとは考えられなかったようです。明治初期の離婚率は、今日より高かったのです。

 議会を二分する激論の末、重婚禁止法案が公布された後も、愛人を作る男性は後を絶ちませんでした。かの渋沢栄一も、愛人宅に入り浸っていたといいます。

 夫には、妻が不倫した場合、妻とその相手の男性を訴える権利がありました。北原白秋も、隣の人妻と不倫して投獄されています。しかし、女性が夫の不倫を訴えることはできませんでした。

 啓蒙思想の高まりにもかかわらず、女性の地位は、日本史上かつて無かったほどおとしめられました。女性の出産は、男性の兵役に匹敵する国民の義務とされ、結婚して3年経っても子どもがなければ、女性は一方的に離縁されても文句を言えませんでした。明治19年には、妻と牛を交換した事例もあります。
 このような状況を打破するために、各種の女性運動も活発になります。

 明治22年に発布された大日本帝国憲法では、正式に女帝が廃止され、天皇は男性のみがなれると規定されました。また、天皇には側室を持つことが認められ、側室の息子にも皇位継承権が存在しました。

 明治20年代からの国家主義化は、理想の夫婦像にも変化をもたらしました。欧米列強と同様の、父は仕事・母子は家庭というタイプの家族が盛んにキャンペーンされるようになります。
 離婚も、それまでと違って厳しく戒められるようになります。
 女性運動は急速に変傾し、良妻賢母を女性の理想とする論評が増えます。20年代後半には、「主婦」という単語が作られました。

 しかし、明治末期からは、自由民権運動の影響で再び女性運動が活発化し、貞操や堕胎を巡って、新たな価値観が提示されます。また、女性たちにとって政治参加は特に切実な願いでした。そこで、女性たちは進んで軍国主義の政府方針に賛成し、自ら良妻賢母を女の理想像として掲げ、かえって自らの自由を縛ることになってしまったのです(>_<)

 当時は、初婚で好きな相手と結婚できることは希で、ほとんど親同士の間で話が決まりました。また、戦時中まで、職場結婚はタブー視されていました。女房を質に入れるのも、戦前まで実際にあった話です。
 日本において、結婚相手が自分で選べるようになったのは、戦後になってからです。



   ◆総理大臣がフードルと結婚!◆

 維新当時、政府に売買春を規制する意図はなく、明治元年には外国人を歓迎するために新たな遊郭を開いたり、遊郭の開所式に総理や知事が出席したりしていました。

 その後、性病の蔓延や人身売買を防ぐために様々な規制が誕生しますが、売買春そのものは公認されていたそうです。
 伊藤博文や山形有朋、坪内逍遙など、当時を代表する政治家や文化人が娼婦を妻にし、憲法発布式に娼婦が参列していたことなどからも、当時の彼女たちの社会的地位の高さが分かります。フードルの歴史は、アイドルより古いのです(*^_^*)

 しかし、20年代に入ると、売買春そのものを廃止すべきであるとする運動が民間、特に既婚女性の中から沸き起こってきます。この流れの中で、「娼婦は恥ずべき存在であり、一般の女性とは差別すべきである」という風潮が定着します。娼婦が公の場に登場する機会は失われました。

 それでも、戦前まで芸者の世界では、時の大臣に女にしてもらうのが最高の名誉でした。年齢は15歳前後というから、今だったら辞職だけでは済まないでしょう(*_*)

 女性たちは粘り強く運動を進め、ついに戦後の昭和33年に売春防止法が制定され、組織売春が禁止されました。しかし、共に18歳以上の男女による、合意の上での売買春は合法とされ、現在に至っています。



 このように、僕らの祖父母が子どもだった時代の日本は、まるで別の国のような文化の中で、愛と別れの物語が繰り広げられていました。わずか2〜3世代で、恋愛ルールはここまで変わるものなのです。




〜恋愛成功変身術〜


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